「コーダ あいのうた」感想

「コーダ あいのうた」感想

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アカデミー賞を受賞したということでそのうち見ておきたいなと思っていた作品。

ろう者の役に実際にろう者の人を配役した映画である。アカデミー賞はそもそも労働のあり方や映画業界の健全な発展とかを目的にしているそうなので、賞の意義に沿った納得な受賞だなあと思った。

アメリカ映画の健全な発展を目的に、キャスト、スタッフを表彰し、その労と成果を讃えるための映画芸術科学アカデミーAMPAS)による映画賞

wikipediaより

 

ろう者(耳が聞こえない人)の家族の中で唯一健聴者であるルビーとその家族の話である。

コーダ(CODA/Children of Deaf Adults)は耳が聞こえない、または聞こえにくい親のもとで育つ子どものことを言うらしい。
この映画で初めて知った言葉だった。

 

生きづらさの違い

この映画はコーダの話であり、障害者家族の生きづらさの話であり、ヤングケアラーの話でもある。
また、インターセクショナリティ(交差性)が絡む部分がある。
インターセクショナリティはwikiによると以下

インターセクショナリティとは、個人のアイデンティティが複数組み合わさることによって起こる特有の差別や抑圧を理解するための枠組みである。また、複数のアイデンティティによる特有の社会的な特権を理解するためにも使われる

「家族に難があり生きづらい」と言ってもその人の人種や世帯年収、また居住地域によっても生きづらさの程度が異なり、ある場所ではマジョリティでありつつ、またある場所ではマイノリティとなったりする。

 

ルビーの生きづらさは、

①家族のために役割を担わなくてはならないこと(ヤングケアラー)

②生活レベルが低く、人生選択が限られてしまうこと(障害者差別によるもの)

大きくこの2点になり、②については①がその原因の1つともなっている。

ろう者である家族が健常者中心に設計された社会で生活していくためには、ルビーが常に家族(障害者)と健常者社会との接点や架け橋として機能しつづけなくてはならない。手話のできる人が少ないために、常に手話通訳者としての仕事を担うこととなり、そのために労働にも積極的に加わることとなる(≒児童労働)。

また、家族はろう者であるがゆえに選択できる職業が少なく、労働対価の高い職業に就ける可能性も低い。結果、ルビーの生活や教育の水準は低くなりがちである。

また、家族内に健常者がいないため「正しい話し方」を学ぶ機会が少なく、会話やコミュニケーションにも苦労する。

ルビーの家族がルビーに頼って生活している部分はあるものの、ルビーのことを大切に思っていないわけでもない。

ただただ、健常者中心に設計された社会で効率的に生活をしようとするとルビーを頼らざるを得ない。

ルビーのそうした生き辛さがある一方で、後にルビーの彼氏となるマイルズは比較的裕福な健常者家庭のようだが、家族仲はあまり良くない。ろう者であっても家族とコミュニケーションが取れているルビーの家庭がマイルズには羨ましく見えてしまう。

「生きづらさ」には様々な種類があり、どの要素が一番辛いかということは誰にも決めることはできない。

 

慎ましい障害者である必要はない

ろう者の両親が割りと性に奔放というか、愛し合うことについて大胆であったり、手話による会話の中でもバンバン下ネタを入れていて、それをルビーに訳させていたり。
ろう者や障害者が大人しく、思慮深く、健常者が助けてあげたくなるような人である必要はないのだが、つい手を差し伸べるに当たり、そうするだけの価値があることを示してほしくなるというか、ある種の見返りを求めてしまいがちである。

実際に、駅への連絡なしで車椅子で電車に乗ろうとする等、健常者から見て度の過ぎた、ややパフォーマンスの意味を込めた抗議行動は、迷惑行為と捉えられることが多い。健常者は自分の好きなタイミングで勝手に電車に乗っているので、車椅子ユーザーがそれを試みることを迷惑行為だと言うことや、そうせざるを得ないこと(乗客に車椅子ユーザーがいる可能性を排除して駅や車両をつくっていること)自体がおかしいのだが。

障害者がその事実を以て抗議することはなんらおかしなことではない。最初から障害者等を考慮して設計していれば発生しない問題なので、健常者が「(障害者に対して)配慮してやっている」と思うことの方がズレた考えである。その事実に気づかず(あるいは健常者の落ち度でもあるので見て見ぬふりをして)、「配慮してやっている」という高ぶる感情を落ち着かせるために「慎ましく、配慮してやっても良いと思わせる障害者」を必要としてしまう健常者がいる。


ルビーに才能がなかったら

映画ではルビーに歌の才能があり、なおかつそれを見出し、サポートしたいと申し出てくれるV先生がいたことが家族関係を見直すきっかけとなった。
ルビーに他者より秀でた才能がなかったり、見出してくれる人がいなかったりした場合、彼女と家族の関係が変わることはなかったかもしれない。

この要素がなかった場合、ルビーはずっとあのまま、ヤングケアラーであり、健常者社会に家族が適応して過ごすための装置として生き続けることになっただろうし、この社会には多くのそうした人たちがいるんだろうと思う。

この映画の中では、ルビーは家族のことを理解してくれる彼氏ができたり、先生に恵まれたり、兄も健常者の恋人ができ、家族の事業もうまくいった。

でも実際そうやってあらゆることを軌道に乗せて、健常者中心の社会でサバイブできる人は少数で、物語の本筋からは外れるがそうした「普通」からこぼれ落ちていく人たちのことを意識せざるを得なかった。

 

あと関係ないけどV先生を見ているとボーカルトレーナーの菅井ちゃん(菅井秀憲さん)がチラつく・・・