「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」感想

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

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アマプラのまもなく見放題終了一覧の中にあり、吃音の症状のある女子高校生の話ということで以前話題になっていたのを思い出して視聴。

 

蒔田彩珠の演じる加代ちゃんの毛量が多く、ぶわっと広がってしまう髪のシルエットが自分の中高生時代を思い出させる。鍵っ子らしいところや、髪が広がるけれどもストパーはさせてもらえないんだろうなというところも。(自宅が公営住宅のようなアパートでそんなに裕福ではなさそうな雰囲気が伝わる)

主人公の志乃ちゃんには吃音があるように、加代ちゃんは音楽が好きだが音痴という欠点がある。

 

吃音に限らず少し変わった特徴を持つ子を衆目の前で馬鹿にしたり、おちょくるのは男子の菊池。このキャラクター、非常に既視感が強い。

目立ちたがりというか、友だちに囲まれたくて「面白い人」になろうと必死になるものの空回りして結局距離を取られるタイプ。本人も作中で言っているが「空気が読めない」。それによって結果いつも1人になってしまうため、さらに友だちを欲してひょうきんなキャラクターを演じるなど空回りの堂々巡り。友人というのは共感を積み重ねて親密な関係を築いていくものだが、彼の発言と行動には全く共感を得られないので友人をなくしていく。

自分の高校時代にも同様の男子がおり、これは友人をなくしていくタイプだなと思っていたら案の定、後半になってくるとみんな引いた目で彼を見ている。

 

この作品、志乃ちゃんがうまく喋れないことについて、「吃音」とか「吃り」とかいう症状名や病名が出てこない。作品内の加代ちゃんたちのように見る側も「志乃ちゃんは吃音なんだろうな」と勝手に推し量りながら見ることになる。

加代ちゃんの音痴や菊池の空気の読めなさも実際の歌や教室内の空気でヒシヒシと伝わってくるが、この2人は元同級生から「歌が下手」と指摘されたり、自分で「空気が読めない」と言葉にしたりしている。

 

周囲の無理解と善意の押し付け

まずは教師の理解のなさ。

「名前ぐらいは言えるようになろう」という善意100%で発せられる悪質な言葉。

高校生にもなって名前が言えない状況にある彼女が何も努力してこなかったと思っているのだろうか。「先生も手伝うから頑張ろう」って、それで治るのなら志乃ちゃんはとっくに名前を言えるようになっている。

 

小学生の頃、今思えば場面緘黙のような症状があったのだろうなと思う子がいた。色白で緊張するとすぐ顔が真っ赤になる子だったが仲の良い子とはハキハキと喋ったり大きな声も出せるのに、みんなの前で話す場になると全く喋れない。10分以上沈黙が流れたこともあった。

日直としてみんなの前で「いただきます」の号令をかけることができずに固まっていたのをよく覚えている。このとき、担任の教師は「彼が『いただきます』を言えるまで給食はたべられません」と言い放ち、私たちは机の上の給食を眺めながらお預け状態となった。彼は顔を真赤にして俯き、そのまま10分ほど経った頃に小さな声で早口で「いただきます」と言ってようやく給食の時間となった。担任の教師が彼のこうした症状を暗に「言わないでいたらそれで済むと思っている」というような、怠慢や逃避として扱い、さして知識もなく、周囲のできごとを何でも吸収していく年頃であった私たちも当然のようにそうした価値観を内面化し、発表しないで済ませようとしている、と彼を白い目で見るようになっていった。教師の態度は児童・生徒に伝播するということを我が身をもって体験しているので教師は自身の発言態度に気を配って欲しいものである。

 

志乃の母親は娘の吃音を心配してはいるのだが、催眠術による治療を勧める。数少ない登場シーンの中でこの親の危うさを的確に表現していると思う。この手の親が子どもの健康不安を理由に新興宗教にのめり込むのだろうか。こうした態度が「治さなくてはならない」という強迫観念や症状の悪化につながると思うのだが…。

 

狭い世界の相互依存

加代ちゃんの提案した筆談は吃音の解決にはならないが、志乃ちゃんが安心してコミュニケーションを取れる状況を作ることができた。また、加代ちゃんはぶっきらぼうに見えて志乃ちゃんが言い終わるのをちゃんと待ってくれる。一人ぼっちだった加代ちゃんにとっても自分に興味を持ち、なんとかコミュニケーションを取ろうとしてくれる志乃ちゃんが新鮮だったのだろうか。

加代ちゃんの音痴を笑ってしまい、散々自分も笑われてきたのに同じことを加代ちゃんにしてしまったと必死に謝罪する志乃ちゃんに加代ちゃんは「言い訳ができて良いよね」と返す。

吃音がない加代ちゃんは音痴に対する言い訳ができない。吃音のある志乃ちゃんは「ありがとう」や「ごめん」が言えなくても吃音だからという言い訳が可能だという吃音の違う側面を意識させられる。

ひとりぼっちだった志乃ちゃんと加代ちゃんはこうした他者との関わりを通して自身の新たな側面に気づいていく。

ここから志乃ちゃんがカラオケで歌うことで「しのかよ」というデュオが結成されるのだが、志乃ちゃんがめちゃくちゃ歌がうまいわけではないところが絶妙。

 

加代ちゃんにとっては自分のやりたいことを受け止め、付き合ってくれる人がいる。

志乃ちゃんにとっては吃音を気にせずにいられる人がいる。

 

互いに今まで存在しなかったものを手に入れる初めての体験であり、そこに没入していく。二人だけの時間を共有していくことで1つの世界をつくり、そこに依存していっているのだが、青春の1ページのようにキラキラと路上ライブのシーンが描かれる。青春というのは狭い範囲の人間関係での一時的な没入感のようなものかもしれない。

しのかよの2人には他に友達がいないため、2人だけの世界は、2人だけの誰にも邪魔されない、優しい世界でもあった。

しかしライブに菊池が現れることで、2人だけの優しい世界ではなくなる。

 

吃音のある志乃ちゃんにとって、唯一安心して喋れるのは加代ちゃんだけであり、菊池が入ってきた場合、コミュニケーションは吃音のない加代ちゃんと菊池の2人が中心となる。3人で会話すると1人が置いてきぼりになりがちなのは健常者でもあるあるの状況だ。

 

他者を通して自分を知り、受け入れる

2人だけの世界は永遠に続かない。

菊池が空気が読めずとも積極的に他者とコミュニケーションを取りに行く姿勢というのは、「空気が読めない」というコンプレックスを認め、それを克服するための行動・チャレンジをしているということでもある。

菊池のコンプレックスに対するそうした行動によって、「しのかよ」の2人の世界を崩されようとするときに、「吃音の自分が安心して過ごせる環境を壊してくれるな」と吃音を言い訳にした否定をすることが志乃ちゃんにはできなくなっている。

言えばたぶん菊池は引き下がってくれて、しのかよは継続できるが菊池に1人でい続けることを強制することになる。また、加代ちゃんと2人だけの世界は永遠には続かないだろうことも分かる。

吃音を気にせずにいられる環境を手に入れても、すぐに瓦解する可能性に常に囚われ怯え続けるのなら、もういっそ1人でいたい。というのが志乃ちゃんが加代ちゃんに告げた「こんなに苦しいなら1人が良い」ではないかと考えた。

 

しのかよが解散状態となった後、

加代ちゃんは自分で曲を作り、文化祭で1人で歌い上げ、音痴である自分を受け入れる。

志乃ちゃんは涙と鼻水を垂らしながら、必死に自分の抱えてきた思いを曝け出し、吃音である自分を受け入れ、自分の名前を言う。

 

この後、志乃ちゃんと加代ちゃん、菊池でバンドを組んでやり直すのかと思いきや、3人とも1人で過ごしている。

ずっとうつむいて1人だった志乃ちゃんに声をかけるクラスメイトがいる。ジュースをもらい、志乃ちゃんは吃りながらも頑張って「ありがとう」を伝える。

志乃ちゃんと加代ちゃんがふとしたことから仲良くなったように、そうした機会はある時、急に訪れるもの。

3人がまた共に時間を過ごすようになるのかもしれないし、コンプレックスを抱えながら他者と関わったり、距離を取ったりしながら前に進んでいくのだろう。