「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」感想

アマゾンプライムで劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を見た感想

Amazon.co.jp: 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトを観る | Prime Video

テレビアニメと劇場版のロンド・ロンド・ロンドは視聴済み。

パンフレットは電子版を購入して読んだ。

好きなキャラクターが大場なな

 

雑感

一貫して「自分の目標を見失わず、これまでの経験を糧にして今進むべき道を選んで進むという覚悟を決めろ」ということをキャラクターそれぞれを通して繰り返し表現していたと感じた。

作品内の言葉を使えば、次のステップに進むために「アタシ再生産」をし続けることを忘れるな、といったところか。

 

パンフレット内でもストーリーというストーリーはない、キャラクターが感情をぶつけ合って殴り合っているヤンキー映画、といった話が載っていて腑に落ちた部分もある。1つのメッセージについて思いをぶつけ合い、自分なりの覚悟を表現していたのだからストーリーというより確かに感情のぶつけ合いのレビューだった。

 

伝えるメッセージを絞り、そのメッセージを各キャラクターに合わせた表現で何度も何度も描いているので終盤に向かってどんどんメッセージが明確になり、強く訴えかけられているように感じた。

この映画でのメッセージを伝える役割は愛城華恋をはじめとするメインキャラクターたちだけでなくサブキャラクターたちも担っていた。

過去の「スタァライト」を乗り越えられるか不安もあるが、より良いものにしようと涙ながらに決意を語る裏方担当のB組の生徒とそれに共鳴していく生徒たちの姿はこの映画のメッセージを序盤から端的に表現している。

「変わらないものはやがて朽ち果て、死んで行く。だから生まれ変われ。古い肉体を壊し、新しい血を吹き込んで。」

もともと華恋たちが演じた「スタァライト」自体が当て書きのような作品にもなっていたので今回も映画本編の筋書きに沿ったものになるのだと感じさせる。

 

個人的には引用のセリフから「葉っぱのフレディ」を思い出した。

変化しないものはない、というダニエルの話を聞いたフレディが変化を受け入れて枝を離れ、土に還り、養分となってまた生まれ変わる。フレディは大木を成長させる側なので「アタシ再生産」における経験や糧の方ではあると思うけど。

 

仕事でビジネス書を読まされることが多いが、たいていどの本でも「停滞は慢心」とか「常に進化しつづける」といったことが書かれているし経営理念に謳っている会社も多い気がする。

今後も役者として社会に出ていく一人となる学生にこの精神を叩き込むというのはなかなかおもしろいな、という見方もある。

 

大場ななと星見純那と進路選択

ばななは一方的に純那ちゃんに期待をしていたというか。

アニメで華恋に上掛けを取られ再演(ループ)が止まった後、ばななの過去を否定せず、偉人の言葉に加えて自分自身の言葉で励ましてくれた純那ちゃんという存在がばななの中では大きかったのだと思われる。

「わたしの好きな純那ちゃん」は偉人の言葉に引っ張られず、そこから自ら言葉を紡いで自分の道を切り開く人だという期待と、ばななが思っていたより消極的な進路選択をしたことに対する怒りの発露が「皆殺しのレビュー」と感じた。

偉人の言葉を自己解釈し、自らの経験も踏まえて「自分の言葉」を紡ぐのも再生産といえるが、映画冒頭の進路相談では偉人の言葉に終止していた。

 

私個人としても純那ちゃんの大学進学という進路選択は自分で自分の星を掴んでみせると豪語する割に消極的だなと感じた。チャレンジングな進路選択をしつつ、保険として受験勉強も真剣にやる子なのではないかと思っていたので。

 

進路選択において、彼女たちはある程度目標(舞台俳優になること・スターになること)が明確になっているので、肝心なのはその目標に近づくための次のステップをどう選ぶか、である。

その上で純那ちゃんの大学進学はフォアキャストな選択だったと思う。フォアキャストは現在や過去の実績を元に予測を建てるので今の自分では真矢たちに敵わないから大学進学を選ぶというのは非常にフォアキャスト的である。

それに対してバックキャストの考え方があるが、こちらは未来の目標に対して逆算して行動の計画・実行(ここでいう進路選択)を行う。

舞台で活躍する俳優を目指そうと思ったとき、それを最短で叶える有力な選択肢は実績が豊富で名門とみなされている「聖翔学園への入学」である。華恋の叔母のマキも目標があるなら最短で確実に実現可能な方法を選択するべきということを言って受験を勧めていたと思う。

つまり、スターを目指して聖翔学園に入学した時点で一旦は全員バックキャストによる進路選択を行っていたとも言える。

ばななは純那ちゃんのチャレンジ精神を称えていたと思うが、チャレンジして成功すればそれは目標に最短で近づくことでもあるため、バックキャスト的な方法でもある。もちろんバンザイアタックのような無謀なチャレンジを推奨するわけではない。純那ちゃんは目標に対して無謀とも思えるチャレンジでもそこに向けてしっかり努力して挑む人である。

常に最大限の努力と挑戦をやめないその気高さや行動力がばななの心を惹きつけたので、挑戦をしない純那ちゃんというのはばななにとっては「私の好きな純那ちゃん」ではないのだ。

 

真矢たちの進路選択も実際は「第100回聖翔祭のスタァライト」の成功による高揚感の中で、今の自分ならここに行ける、これが出来る、という進路選択を行っていた。チャレンジしているように見えて実態は本来掲げていた目標を見失った状態で今の実力と高揚感でフォアキャストの選択を行っていたのだろう。

「第100回聖翔祭のスタァライト」を成功させた今の自分の輝きによって、本来掲げていた輝ける未来像というものが見えなくなっていた。

「第100回聖翔祭のスタァライト」が終演した時点ですでにその成功は過去の出来事であり、過去の栄光を基準に考えていては目標としている自分に届くことはない、自分の本来の目標を基準に次に進むべき方向を決めなくてはならない。そして進むときには過去の栄光も経験もすべて”燃やして”、”糧にして”、挑まなくてはならない。

華恋の育った家まで燃やす演出は”すべてを燃やして”次に進むというメッセージをより明確にしていたと思う。

 

目標は輝くスターであること

どのキャラクターも目標はスターとして輝くこと。

その手段としてプロの役者という選択肢を選んでいる。

経験し積み上げたことは何度も崩し、燃料にして(=糧にして)、目標を見失わずに挑戦をし続けなければならない。

ばななの「皆殺しのレビュー」から皆がこれに気づき、そのために積み上げてきたものを崩し、燃料にし、次へ進む覚悟を決めるまでを各キャラクターごとに描いたのがこの映画。結果として同じメッセージを繰り返すことになり、メッセージが強くなっていったのが良かったと感じている。

 

個人的な大場ななへの気持ち

今回の映画を通してより好きなキャラクターとなった「大場なな」

温和で優しい言葉や態度で包容力を感じさせるが、パンフレットに掲載されている台本を見てもかなり個人主義的というか独善的な感覚が見受けられる。

他のキャラクターの台本はそのセリフ時点での心情についての解釈や舞台上の照明位置や場ミリ、自分へのエールなどいろんな書き込みで溢れていたが、ばななの台本は非常に書き込みが少ない。最後のセリフについても他のキャラクターの台本はそのセリフが紡がれるに至る心情の変化が書き込まれているがばななの台本には「決意して」という言葉以外に書き込みがない。最後のセリフも抽象的で、余白の多いものになっている。

自分の解釈が揺らぐことはなく、説明的なセリフにしなくても自分の演技で表現できるという自信を感じた。

 

ばななは自分の解釈、考え、技量におそらく多大な自信があり、それが揺るがない。

中学時代は弱小の演劇部でなんとか活動していた程度らしいので、自分の実力に対する客観的評価は聖翔に入学後のキリンのオーディションと再演のループの中で自覚し、再演のループを牛耳る中で実力に対する自信が独善的な思想に結びつきながら強化され、皆殺しのレビューにもつながったのかもしれないが。

 

再演のループという独善的で、自分の求めるものを手に入れるためになりふり構わない行動をとっていたばななに寄り添い、自分自身の言葉で背中を押してくれたのが純那ちゃんである。包容力があるように見えて独りよがりな行動をとるばななを受け入れたのが純那ちゃんなので、特別な存在なのだろうと思う。

 

余談だがばななと純那ちゃんの関係性から勝手に大場ななにはコードギアスの枢木スザク的な雰囲気を見出している部分がある。

恵まれた才能や体格を持ち、

朗らかで人当たり良く見えるが、

陰鬱とした過去(父親殺し/再演のループ)を持ち、

特定の個人(ルルーシュ/星見純那)への強い感情や執着(期待や尊敬、感謝、友愛などいろいろコミコミ)と、

これらに起因した独りよがりな行動を起こす点について、

枢木スザクとの共通点を勝手に見出している。

情にもろく、涙もろい部分も似ていて、衣装が白というのもまた…。

 

 

ともかく1本の映画として強いメッセージ性のこもった完成度の高い映画でした!

評価が高いのもうなずけます。