「ビリーブ 未来への大逆転」感想

『ビリーブ 未来への大逆転』感想

 

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アマゾンプライムでもうすぐ見放題が終了になるところだったので視聴。

最近は見よう見ようと思っていながら後回しにしてしまいがちで、もうすぐ見放題が終了となる作品の中から見るものを探していたりする。

 

映画はルース・ベイダー・ギンズバーグというアメリカの最高裁判事を務めた女性の話。

名前からRBGとも呼ばれて性差別解消の旗印というかアイコン的存在だったらしい。トランプ政権下における貴重なリベラル派判事として注目を集めていて、本人も自身の果たすべき役割について自負があったようだが2020年に逝去。

恥ずかしながらこの映画もRBGについても最近知ったところである。

広瀬すずがドラマで演じていた津田梅子もそうだが、映像作品を通してものすごく自分の琴線に触れる人に出会うことがある。

RBGについてはこの映画のほかに『RBG最強の85才』という作品もある。

『ビリーブ 未来への大逆転』がRBGの半生を描いた映画であるのに対し、こちらはドキュメンタリーになっているらしい。現在アマプラ見放題にはなっていないが見てみたい。

 

感想

1950年代に結婚し子どもがいる状況でハーバードのロースクールに入学。猛勉強の末、成績優秀者となるも、女性というだけで弁護士になることができず大学で教鞭をとることに。

性差別を受けているものの、彼女のここまでのストーリー(映画の冒頭部分でしかない)でもかなりガラスの天井を自力で爆破している様子が伺えるのだが、夫のマーティンのサポートが厚い。

RBGの知性を重んじ、尊重しているし主体的に家事も担う。残念ながら、ただこれだけのことができない男性が現代にも多い。

 

この映画で性差別解消のキーとなるのが独身男性介護者に対する差別である。

独身男性が親の介護のために発生した費用の控除を求める裁判(当時は介護者が女性の場合にしか認められていなかったらしい)で性差別を認める判決を掴み、他のあらゆる性差別解消のための前例を作ることを目的としている。

悲しいかな性差別の解消を訴える場合、性差別の解消は男性も救われるのだと伝え、権力層を占める男性の共感を呼び込まねば動いていかない。性差別を語る際にRBGが女性も消防士やパイロットを目指して良い、残業もして良い、キツい仕事もして良いと語る場面があるが、日本では現状例えば一定以上の重さのものを扱う仕事に、女性とくに妊婦を就かせることはできない。

これは「母体保護だ、女性を保護してやっているのだ」、という論によって成り立っているが、男性にも体力の少ない人はいるし、機械の操作で成り立つ仕事が増えていることを考えると性別によって仕事を制限する必要はないと感じる。

ただし、その場合には性教育と安全教育が必要不可欠ではある。どういった行為や状況・環境が身体にどう影響を与えるのかということを誰もが学んだ上で職業選択できる状況でなくてはいけない。

残念ながら本邦においては、まともな性教育を受けさせず(はどめ規定)、性暴行の加害者と被害者を増やしていきたいというのが政府の考えなので当面難しいのかもしれない。性教育を受けないことによる男性の性被害が増えて社会問題とならなければ動かないかもしれない。

 

この映画は現代の性差別問題でもよく耳にする言葉が溢れていた。

「国を変えたいのではない、国は勝手に変わっていく、だから国にあわせて法を変えていかなければならない。」といったことは今でもよく耳にする。社会にあわせて法を変えてくれ、というのは同性婚裁判で原告側の訴えている内容でもある。

色々調べてみると女性差別問題における「私たちを踏みつける足をどけて」とか、判事のうち何人が女性になったら満足か?という質問に「9人(全員/これまで全員が男性でも問題とされなかったから)」と答える話を耳にしたことがあったがこれも彼女によるものだった。

またこの映画の原題は『On the Basis of Sex』。性に基づいて、というような意味だが性差別(主に女性差別)を意味する原題の空気を無視してキラキラした雰囲気の「ビリーブ」とか「未来」とかいう曖昧な言葉でごまかしているところに非常に日本らしさを感じる邦題である(皮肉です)。

 

また、自分も気にかけておきたいと感じたのは、社会の変化、とりわけ若年層という今後社会を担っていく人たちの感覚の変化に如何に気づいていくか。これは若者の感覚を自分にインストールしていくしかない。

まだ子どもが小さく、若い頃の彼女は夫のマーティンや周囲に対し、行動や言動を改めていかなければならないと強く訴えていた。しかし性的な発言でからかってくる男性を無視する彼女に、成長した娘が「黙っていたら駄目だ!」と強く反発して男性たちに言い返す。RBGは娘のその姿を見て、社会が変わってきている、もう女性は黙っているばかりではないのだと強く感じるのだが、こうした出来事がないと、とくに性差別問題の最前線で戦ってきた彼女は自分の行動が最善であると思い込みがちになり、認識しにくかったのだと思う。彼女が生きる時代においては男性以上の能力を見せなければ女性は男性と同等の権利を手にできなかった。勉強、育児、仕事とすべてを完璧にこなし、1つも文句を言わせない状況をつくることでしか地位を築けなかった。弱点を見せてしまっては権利を手に入れられないので挑発や嘲笑に対して怒りを見せることができなかったのだと思う。

そこから彼女の娘の時代、そして今はむしろ「怒り」の表明をしなくてはならないという感覚が主流であると思う。もちろん未だに「そんな怒った口調じゃ聞いてやれないよ」というトーンポリシングを平気でする人間もいるが。

 

私もたまに若者との感覚の違いに面食らうことが増え、自分の年齢を感じてしまう。

また、ハラスメントに関して声を上げたり苦言を呈したりする際に、身構えて、反論されたり嫌な顔をされたりするだろうという心積もりでいると、思いの外、聞き入れてもらえて拍子抜けすることがある。そうした場合に案外社会は変わってきているのかもしれないな、と思うと同時に、声をあげた自分を称えたいし、聞き入れてもらえたとは言え、自分を含むそれまで我慢せざるを得なかった人たちの存在を無視することはしたくないとも感じる。

聞き入れてもらえることは嬉しいが、言わなければそのままだったのだ。私が言うまで、ハラスメントの事実を見えないことにしていたのだから、聞き入れただけのことに対し「ありがとう」を伝えることは躊躇してしまう。

 

”過激な”性差別の解消というのはアンチフェミニストがよく使う表現だが、当時過激だと言われた女性参政権や女性の服装の自由化等は今日では当たり前のものとなっている。今の時代にそれらを「過激だ」などと言ったら恥をかくレベルで。

現代において右派が過激だと言う同性婚の法制化や夫婦別姓等は本当に過激なのだろうか。あと何年経てば同性婚夫婦別姓反対が恥ずかしいことになるのだろうと思いを馳せる。